昭和44年10月30日 夜の御理解
最後の今日の荷物も、無事に出すことが出来ましたが、荷物を送ります時に昔は、まあこの辺のならわしとして、荷物やり歌というような、御歌がありました、これだけの荷物を持たしてやるからには決してその帰ろうとでも思うてはならんといったような文句の歌があったと思いますね。
まあ本当に勿体無いほどしの沢山な物を、しかも見事な物を、本当に神乍らに、もう本当に神乍らと言うようなしにあの、今日の車に荷物が積もった具合なんかでもね、もう本当に恐れ入るばかりでございましたが、そのこれだけの荷物をこれだけ立派な物を持って行ったから、帰ろうとも思うなというのではなくて、あの荷物がね、あれほどしの立派な物が生かして使えることを願えということを頂いたんですね。
例えばうんなら、沢山な着物がまいりました、もうそれこそ一枚が十万も十何万もするといったような着物が沢山いったが、あれが直しぎりのようなことであってはいけませんもんね、例えば大島なんかって言う物は、まあだいたい普段着と言われておりますけれども、どんなに考えても、もう原価で十一万円もすると言うのですからね。ですからそういう物を例えば普段着に出けておるんです。大体反物の(一種?)として普段着に着るものだと言われておる。
ですからそういう物を、例えば普段着に着れるほどしの内容を頂けということだと、それがもう持って行ったなりに、持って行ったなりに、とうとう手も通さなかったとね、と言った様な事ではなくて、これからその例えば、古川の家自身が、まあまあ皆さんもご承知のようにあれだけ徳を持っておられるお家なんですけれども。いわゆる教祖様の血が通うておると言う程しのお家ですから。
けれどもこんなまあ何て言うかね、ようやく合楽教会は教会になったばかりの、しかも田園教会のこんな片田舎からまあ参りますので御座いますから。けれども矢張り問題は豊美自身の信心の徳というものがです、身に付いて来てあの着物が着れれるおかげを頂く事こそが(健康?)である、同時に私そのことを頂いてまず(健康?)の事を思いますですね。例えば(布団のどんども?)入らなければならないと言う様な事であったら、どんなに素晴らしい着物を持って行っとても、手を通す事すらも出来ませんから。
先ず何と言うても健康のおかげを頂かなきゃならん、同時にです。そういう例えば十何万もすると言う様な着物がです。普段着にでも着れれる程しの、矢張り徳を受けなきゃいけないと、そこで私は日頃ここで頂いておる教えを、本当に身に付かなければいけないと、言う事なんだけれど。例えば今荷物が( ? )なんとか、あの切符がないとこう、どこにやったか分からんっち言うわけ。
(?)今頃になって何ち言うこつかと言うて探しよったら出て来た、さあ是で(?)と思ったら、洋服のなんか上着が無いっち言うて探しよった、で上着はあの駐車場に落としておったと、時に文男先生がはっと気付いたんですよね、是はちった私はぼうけとるばい誰でん行く者三人、正義先生と文男先生と、三男さんと三人で参りました、ちっと御神前にもう一遍出て御祈念でもさして頂いて、心を落ち着けて行かして頂こう、また改めて三人が上に上がって参りまして、暫く御祈念をしてからまあ出て参りました。
私は信心には是が必要だと思いますね、日々の上にです例えばイライラするとか、モヤモヤするとか情けないとか寂しいとか、またはどんなに思うても右とした事が左になっ、タイミングが悪い例えば、ね、「もうなんと今日はタイミングの悪いことであろうか」と、言う様な時にはまず出掛けるのは止めてからでも、御神前にぬかずくお取り次ぎを頂く、そしてタイミングが素晴らしいタイミングに戻ってから、自分の心の調子が治ってから、その事にのぞむと言う様な信心が必要だと。
さすがに文男先生だなと私は思いました今、ああこの調子で行きゃ大丈夫だと、責任重大ですから。矢張りちっと上がとった、ですから私共が信心によって折角のおかげを頂かして頂くという事は、もう日々がそれなんだ、例えば金銭に不自由をすると、物に不自由をすると、どんなに考えたっておかしい。ですからそういう時にはです、「お金を下さいお金を下さい」と神様に願うのじゃなくてです、その不自由しなければならない元に気付かして頂いて、そこを改まって願うていくと言う様な信心。
だから前に前進することよりも、やはりむしろ後戻りをして見て、「はぁここにこういう落着かない元が出けておった」と分からしてもろうて、心の上に落ち着きを頂き、いわゆる平生心を頂いて事にのぞむ、これが日々それでなからにゃいかん、私はそういう信心がね、力を受けるのでありそういう信心が徳を受けて行くんだと、特に言わばついておるもの、それこそあれほどしの沢山な物をでしかも、本当にあの立派な物ばかりを頂いてまいりましても、ああいう小道具一つでもですね。
こげんと使うちゃ勿体無かっちゅうごたるまんじゃつまらんって、どういう勿体無い物でもです、贅沢に使うのじゃない、そういう物が平生使えれるような、内容を頂かなきゃいけないと言う事、十何万もする様な大島でも、言わば平生に着ておれれる位な、おかげを頂いて、しかも誰が見てもです、それが丁度適当に見える様なおかげを頂かにゃいけん、「いやぁあっちはお金も無いとにもういつも十万もする着物ば着てござる」おかしいでしょうが、けどどんなに十万の着物を着とってもです。
それを日常普段に着ておってもおかしゅうない、と例えば人からでも認められる位な、おかげをます頂かなければならない、問題は持って行った物がある意味は、金光様のお徳、教祖様のお徳、古川家のお徳、それにまた合楽の言うならば、徳とまではいかんにしても、信心が伴のうておるのだ、だからそれを凝視する者、使わして頂く者自身もやはり力を頂かなければ使えない、だからそれを直しきり直しきっとかなんならんと言う様な事ではなくてです。
それがもう本当に、もうフルに、あれが使われる、あれだけの物ば持って行ったら古川の家が、家がいっぱいになるだろうおそらく、なら、新たな、言わば御普請でも出来るくらいな、お繰り合わせを頂いて、あの調度品なら調度品が、ぴったりするようなおかげを頂かなきゃいけん、つり合わないっていうことが一番いけない、やっぱりそれにつり合うおかげを頂かして頂くために、その人はその人の信心の内容が、確かめられて行かなきゃいけん、しかも日々。
それを只今文男先生が、「あらおかしいな」と、大事な物を持って行くのを忘れたり、落としておったり、「これちょっと今日はおかしいぞ」と思うたら、そのまま運転して行くのじゃなくて是はおかしいぞ、ならとにかく御神前に一遍出てと言うて、御広前へ出て御祈念でもさしてもろうて、そこに生まれてくる安心と言うか平生心を頂いて、おかげを頂いていこうと言った様な信心の進め方がね、日々出来なければいけない。
どうぞ。